010 相対的絶対の奨め

内田樹さんの書かれた「日本辺境論」の中に丸山眞男さんが「日本人はいつもキョロキョロしている」ということを言われたとあります。何となく分からなくもありません。それは多分二度の大きな否定を経験したからだと思います。一度目は明治の文明開化と二度目は第二次世界大戦後の高度経済成長。文明開化は「文化的レベルは高かったが、文明的レベルが低かった」ということであったろうと思います。高度経済成長は産業の指針を当時の先進国に求めて、それをお手本に潜在的な高い技術で追い抜いていく過程。要は「世界経済で活躍する」時期。この二度の発展は、先に否定と書きましたが、それまでの文明レベルが一段上がる感じなのだと思います(文明と文化を混同して失われた文化が多々あるように思いますという意味で過去を否定)。それは、「他のレベルに合わせる」というなにか日本人特有の相対感なのかなとも思ったりします。相対感ってもっと掘り下げると万物同根とか山川草木悉皆成仏というような思想。これって、やはり日本人の根底に流れる八百万の神志向というか共生意識というか。絶対的な相対性だと思うんです。 他者から生かされてるという相対感とか。ところが、一方で信じているものと直接繋がる強さっていうものもあります。これってキリスト教やイスラム教や一部の仏教宗派などに代表される、俗に一神教って言われるもの。自分の信じる神様仏様を手本にして進んで行くからこれは絶対です(絶対的絶対)。全く揺るぎない(イマニュエル・ウォーラーステインの「ヨーロッパ的普遍主義」なんて読むと面白いです)。個人的には八百万の神志向っていいものだと思います。なんかひとつに収斂してしまうと解釈を間違えると怖いというか…緩衝材がいろいろある方がなんか寛容にもなれる気もしますし…長くなるので端折りますが、なんとなく「日本人はいつも現状維持でなんとかやっているが、他から刺激を受けると突然そのレベルに合わせて頑張る」っていうような繰り返しのような気がするんですね。でも、もう他のお手本や他からの刺激って少ないように思うんです(尖閣や竹島問題、北朝鮮など変に刺激の高い事はありますが…)。充分先進国の仲間入りをしているし。アメリカやEUも大変だし、中国やインドのように人口では勝てないし。なので、自分達を信じて、世界の先を創造していくような時期なのではないかと思うんです(ガラパゴス化は良くありませんが…)。そういう意味で絶対的相対から相対的絶対になってもいいのではないかと思うんです。何となく言葉遊びのような感じと思われる方もおられると思いますが、まぁキョロキョロするけど芯があるってところでしょうか。ページ都合という事でこの辺で失礼します…